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賤ヶ岳合戦エリア

義勇と涙のドラマが生まれた戦場の跡を参る旅

目次

    琵琶湖と余呉湖、ふたつの静かな湖面を眼下に望む「賤ヶ岳(しずがたけ)」。

    この山は、天正11年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が天下の覇権をかけて激突した、歴史的な舞台です。

    北国街道の要衝に位置するこの地は、「賤ヶ岳の戦い」の激戦地として知られ、現在もなお、山の麓には戦死者の墓、首塚、古戦場跡など、当時の記憶を今に伝える数々の遺跡が静かに佇んでいます。

    今回は、そんな賤ヶ岳の地に今も息づく戦いの痕跡をたどりながら、歴史と自然が織りなす旅をご紹介します。

    織田家の後継をめぐる決戦「賤ヶ岳の戦い」とは(1583)

    賤ヶ岳合戦図屏風(長浜城歴史博物館所蔵)
    賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳合戦)における戦場の様子や武将たちの配置、戦術などが詳細に描写されている

    本能寺で信長が横死した翌年の天正11年(1583)、後継者をめぐる織田家の実権争いにより、北陸方面軍の対象であった名将・柴田勝家と、中国地方から勢いを増してきた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が激突しました。

    その「賤ヶ岳の戦い」の舞台となったのは、琵琶湖を望む要衝・賤ヶ岳。

    秀吉は、近江北部に強固な防衛ラインを築いて砦群を連ね、北国街道の隘路にまで防御壁を築くなど勝家軍の侵攻に備えていました。

    一方、勝家の家臣・佐久間盛政は、勝家の意に反して攻勢を仕掛け、秀吉軍の砦の一つ、大岩山砦を急襲。これにより、秀吉軍の重臣・中川清秀が討死するという重大な損害が生じました。

    秀吉は、一時的に前線を離れて美濃・大垣方面へと兵を進めている最中でしたが、佐久間盛政による急襲と中川清秀の討死という報を受けると、約1万5千の軍勢を率いてただちに戦場に戻ったとされます。

    そして、秀吉の名補佐役であった弟・秀長の冷静かつ的確な指揮や、秀吉の旗下で勝家の猛将たちを退けた7人の精鋭「七本槍」の敢闘により、勝家は居城・北ノ庄へ退却し自刃しました。

    勝利を掲げた秀吉は、織田政権の実質的な主導権を手にし、天下統一へと大きく踏み出したのでした。

    スポット紹介〜羽柴秀吉と柴田勝家、運命の激突をたどる歴史トレイル〜

    現在の賤ヶ岳周辺には、戦国時代の激戦地としての名残が随所に見られ、観光や歴史散策の地として整備されています。

    ◾️猿が馬場(さるがばば)〜秀吉の知略が光った勝利の地〜

    賤ヶ岳の登山口近くにある「猿が馬場」。現在は緑に包まれた静かな広場ですが、この地はかつて、豊臣秀吉が賤ヶ岳の戦いに臨むにあたり、軍勢を集め出陣の準備を整えた場所と伝えられています。

    この場所から、秀吉の軍は険しい山道を進み、賤ヶ岳の山頂を目指して布陣していきました。静かに佇むこの広場には、かつての緊張感や出陣の気迫が今もなお漂っているかのようです。

    現代では登山道の要所として訪れる人も多く、春は新緑、秋は紅葉に彩られたこの地に、かつての戦国の息吹を感じることができます。

    ◾️賤ヶ岳山頂〜天下分け目の主戦場〜

    賤ヶ岳の山頂付近には、「賤ヶ岳の戦い」を今に伝える戦跡碑や戦没者の慰霊碑が静かに佇み、戦国の記憶を語り継いでいます。

    山頂からは、湖北の雄大な自然を一望できる絶景が広がります。

    竹生島が浮かぶ雄大な奥琵琶湖、滋賀県最高峰の伊吹山、穏やかな湖面の反射が美しい余呉湖など、湖北を一望できる圧巻の大パノラマが広がります。

    「賤ヶ岳リフト」を利用すれば、空中散歩を楽しみながら、わずか5分ほどで山頂へ。心地よい風を感じつつ、一気に戦国の舞台へとタイムスリップできます。

    賤ヶ岳リフト
    滋賀県長浜市木之本町大音
    【電話】0749-82-3009
    【料金】大人900円、小学生500円(往復)
    【営業時間】9:00~17:00(11月以降は16:00まで)
    【運行期間】4月下旬頃〜12月上旬頃 ※詳細はHPをご覧ください。
    【アクセス】木之本ICより車で3分、土日祝のみJR木ノ本駅より無料シャトルバス運行
    詳細はHPをご確認ください。
    https://www.shizugatakelift.jp/

    ◾️首洗いの池〜戦の果てに静かにたたずむ、鎮魂の水辺〜

    賤ヶ岳の戦いの後、多くの首がこの池で洗われたとされる「首洗いの池」。今は静寂に包まれた小さな水辺ですが、その名が語るように激戦の名残を今に伝えています。

    池のほとりには供養塔が建てられており、訪れる者が祈りを捧げています。

    ◾️中川清秀の墓〜義に生き、戦に散った秀吉の名将〜

    中川清秀の墓(大岩山中腹)

    賤ヶ岳の南側(余呉湖の南東)に位置する大岩山頂には、堅固な要衝である大岩山の砦を任された秀吉の家臣・中川清秀の墓が静かに佇みます。

    大岩山は、左に賤ヶ岳、右に岩崎山、前方に神明山と、味方の軍に囲まれた比較的安全な砦でした。ところが、柴田勝家方の猛将・佐久間盛政がここに奇襲を仕掛けてきたのです。

    砦を守っていた中川清秀は、不意を突かれたもののすぐさま応戦し、一時は敵を余呉湖の岸まで押し返す奮戦を見せました。しかし、やがて力尽き、配下の兵数百名とともに壮絶な討死を遂げました。

    清秀の奮戦のおかげで陣営を立て直した秀吉軍は、その後の「賤ヶ岳七本槍」の精鋭たちの奮戦によって戦いを勝利へと導いたのでした。

    清秀の戦死の報を聞いた秀吉は、声を押し殺して涙を流し、その忠義を悼んだともいわれています。その後、秀吉への忠誠心と不屈の精神で戦い抜いた彼の勇姿を讃えてこの墓碑が建てられました。

    ◾️全長寺(ぜんちょうじ)〜秀吉が再建を命じた、戦国の鎮魂地〜

    静けさに包まれた余呉湖のほとりに、ひっそりと佇む古刹「全長寺(ぜんちょうじ)」。別名「あじさい寺」と呼ばれ、6月下旬にかけて境内にはアジサイが咲きます。

    この寺は、賤ヶ岳の戦いで散った多くの命を悼み、羽柴秀吉が自ら再建を命じたと伝えられる、戦国の記憶を今に伝える場所です。

    境内に建つ合戦供養塔は、激戦のさなかに命を落とした両軍の兵たちへの深い哀悼のしるしとして建てられました。

    また、境内にある観音堂には、かつてこの地の池原村・別所山(べっしょやま)に存在した天台宗の古刹「万福寺」の本尊、馬頭観音菩薩像が祀られています。

    万福寺は戦国時代の戦火により焼失しましたが、慶長16年(1611)に山麓にて再建されました。その後、明治期に入って寺の老朽化により、本尊は全長寺へと移され、今も変わらずこの地で信仰を集めています。

    ◾️毛受兄弟(めんじゅきょうだい)の墓〜命を賭して主君を守った、忠義の兄弟の墓〜

    賤ヶ岳の古戦場に静かに佇む「毛受兄弟の墓」は、勝家の忠臣として共に戦い抜いた毛受勝照、勝忠の兄弟を弔って建てられました。

    ともに勝家の小姓として仕えた毛受兄弟は、勝家を越前まで落ち延びさせるため、金の御幣の馬印を掲げて身代わりとなり秀吉軍と戦いました。

    兄弟はこの戦で討ち死にしましたが、秀吉は主君の身代わりとなって戦い抜いた忠義と兄弟の絆に感動し、その亡骸を懇ろに葬り、全長寺の僧に弔いを依頼したと言われています。

    ◾️七本槍の石碑〜秀吉を支えた7人の若き猛者たちを讃える碑〜

    余呉湖の西側にそびえる賤ヶ岳の山頂は、かつて秀吉と柴田勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」の舞台。標高約420メートルの山頂には「賤ヶ岳古戦場」の碑が建つ

    賤ヶ岳の山中には、今も静かに佇む碑があります。

    それは、賤ヶ岳の戦いにおいて、ひときわめざましい活躍を見せた七人の若武者を称える「七本槍」の碑です。

    そこに名を連ねるのは、福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則の七人の武将たち。いずれも、後に豊臣政権を支える中核や諸大名へと成長していく逸材たちでした。

    彼らが「七本槍」と称されたのは、賤ヶ岳の戦いの本戦において、前線で敵軍を押し返し、特に目覚ましい武功を立てたことに由来します。とりわけ、勝敗を分けたとされる中川清秀の戦死後の激戦で、彼らは命を賭して奮戦し、秀吉の勝利に大きく貢献したと伝えられています。

    戦国の鼓動が、今も聞こえる場所へ

    賤ヶ岳の山々に点在する史跡には、命を賭して戦った武将たちの気迫や、時代を超えて語り継がれる物語が息づいています。豊かな自然の中で、戦国武将たちのドラマに想いを馳せながら歩くこの山旅。あなたも一歩ずつ、歴史の足跡をたどってみませんか?

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