戦国の世に日本各地で繰り広げられた合戦は、新たな兵器の登場によっても大きく様相を変えていきました。その象徴のひとつが火縄銃です。
天文12年(1543)、ポルトガル人の船によって火縄銃が種子島に伝来すると、後に全国各地で製造技術が発展し、戦術の革新に大きく寄与しました。
とくに近江国北部、現在の長浜市周辺は火縄銃の生産で知られ、戦国時代の兵器史において重要な役割を果たしています。
戦国の技術と長浜の歴史
天文12年(1543)8月25日。種子島の門倉岬に一艘の中国船が嵐により漂着しました。そこに乗っていたポルトガル人が日本にもたらしたのが、わずか2挺の鉄砲。
これが、日本の戦いの歴史を変えた「鉄砲伝来」の瞬間でした。
◾️戦国を支えた鉄砲鍛冶の里、国友町
鉄砲伝来の翌年、1544年。長浜市・国友町では、いち早く鉄砲の製造が始まりました。国友町の鉄砲鍛冶集団「国友鍛冶」は、最盛期には70軒を超える鍛冶屋と500人以上の職人が集い、戦国の世を支える一大生産地として栄えました。
国友の鉄砲づくりは高度な分業体制で行われました。
「銃身を鍛える鍛冶師」「銃床を作る台師」「引き金や金具を仕上げる金具師」が連携し、精巧な火縄銃を仕上げます。また、ネジの開発にも成功し、分解や修理が容易になったことで、大量生産が可能になったのです。
◾️戦国の戦術を変えた国友の火縄銃
こうして製造された国友の火縄銃は、織田信長や豊臣秀吉の軍勢にも供給されました。
元亀元年(1570)の「姉川合戦」にも使用され、さらに天正3年(1575)の「長篠の戦い」では、織田軍が使用した約3,000挺のうち500挺が国友製だったと伝えられています。
この戦いで信長は鉄砲隊を組織的に運用し、戦国の戦術に大きな変革をもたらしました。
戦国時代を支えた国友の職人たちは、その後も徳川家に鉄砲を納め続けます。
慶長18年(1613)には大筒や小筒など多様な鉄砲の製造に成功し、翌年の「大坂の陣」では徳川軍が国友製の鉄砲を駆使して勝利を収めました。こうして、国友の鉄砲は徳川250年の平和な時代の礎となったのです。
スポット紹介 国友鉄砲ミュージアム

日本有数の鉄砲生産地として名を馳せた長浜市国友町にある「国友鉄砲ミュージアム」は、1987年(昭和62年)10月に開館した、全国でも珍しい火縄銃専門のミュージアム です。
このミュージアムの特色は、地域住民の手によって運営されているという点。地元の誇りと歴史を守り伝えるその姿勢が、館の隅々にまで息づいています。
近年は世界的な火縄銃ブームの影響もあり、海外からの来館者も増加しています。
◾️火縄銃の歴史を“見て・触れて・感じる”ことができるスポット

館内には、戦国から江戸時代にかけて実際に使われていた 火縄銃の実物展示をはじめ、職人たちが使っていた製作道具や設計図などが並び、鉄砲づくりの歴史を間近に感じることができます。
展示室では、火縄銃の構造や発射の仕組みを模型や映像でわかりやすく解説。子どもから大人まで、楽しく学べるよう工夫されています。
ミュージアムの周辺には、かつて鉄砲鍛冶が暮らしていた古い町並みも残り、歴史散策にもぴったり。静かな町に響く金属の音を想像しながら歩けば、まるで戦国の職人たちの息遣いが聞こえてくるようです。
◾️火縄銃の重さを体感しよう

体験コーナーでは、火縄銃のレプリカを手に取り、その重さや構え方を実際に体感することができます。思った以上にずっしりとした重量に、誰もが「これを戦場で使っていたのか!」驚くとともに、戦国の武士たちが背負った重量や戦場での扱いの難しさを、体感的に理解することができます。
現代の私たちが火縄銃を手にすることで、戦国の武士たちが背負った重量や戦場での扱いの難しさを、体感的に理解することができます。
戦国時代の火縄銃文化と、国友鍛冶の高い技術を今に伝える貴重な資料館を、ぜひ訪れてみてください。そして、戦国時代の戦術や兵士たちの工夫を肌で感じてください。
国友鉄砲ミュージアム
滋賀県長浜市国友町534番地
【電話】0749-62-1250
【入館料】大人(高校生以上)350円、小・中学生150円
【営業時間】9:00~17:00(入館受付は16:30まで)
【休館日】月曜日、年末年始(12月28日〜1月3日)
【アクセス】北陸自動車道長浜ICより車で約5分、・JR北陸本線「長浜駅」から湖国バス乗車で約25分、バス停「国友」降りてすぐ